【4】ジェフ・ライアン『ニンテンドー・イン・アメリカ 世界を制した驚異の創造力』
- 作者: ジェフ・ライアン,林田 陽子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/12/22
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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なぜ任天堂「だけ」がアメリカで成功できたのか?世界を魅了し続ける日本企業の栄光と試練。気鋭のアメリカ人ジャーナリストが迫る。(「BOOK」データベースより)
任天堂といえば、我々の世代は花札でもなければ3DSでもない。『ファミコン』だ。小学生の頃、友達の家で遊んだ『マリオブラザーズ』がどうしてもやりたくて、親に買ってくれとせがんだのは30年以上も前の話だ。懐かしい。
任天堂との出会いはこの時が初めてではない。ゲーム&ウォッチをご存知か?手のひらサイズのモノクロ液晶携帯ゲーム機を。当然、今のDSのように何種類ものゲームを入れ替えることはできない。一つのゲーム機に一つのゲーム。当時よくやったのは『マンホール』と『オクトパス』だ。ゲームの内容は単純だったが時間を忘れてのめり込んだものだ。(←我ながら誇らしい)
今でこそ私はゲームはほとんどやらないが、昔は寝食を忘れて狂ったようにプレイした。大人たちに混じってゲーセンで(←なんて懐かしい響きだ!)『ギャラクシアン』や『パックマン』、喫茶店で『スペースインベーダー』。(テーブルにビデオゲームが埋め込まれた感じだった。)
驚くべきことに、当時私がよく行っていた駄菓子屋には『ドンキーコング』が置いてあった。(まったく、褒められた環境ではないが・・・)家に帰ればファミコン、友達の家でもファミコン。嗚呼、懐かしや中毒的ゲーム三昧の日々。ファミコンのソフトも山のようにあった。お気に入りは『バルーンファイト』や『エキサイトバイク』。その山の頂上にいつもあったのは『スーパーマリオブラザーズ』だ。スーパーマリオの職業が配管工だったとは、この本を読むまで知らずにいたが、もっと驚くべきことにこのゲームソフトは全世界で4千万本以上売れたらしい。スーパーマリオシリーズ関係のソフトは2億4千万本販売されている。任天堂のマリオの売上金額は、ざっと見積もって120億ドル。マリオの金貨を1枚100万ドルとしても、それだけの金額を集めるためには、マリオは3時間半くらいコインが出てくるブロックに頭をぶつけ続けなければいけないらしい。
近年の任天堂の歴史はマリオの歴史といっても過言ではないだろう。この本の主人公はマリオではない。
任天堂の歴史を築いた男達を紹介しよう。
ゲームデザイナー。代表作は『ドンキーコング』『ドンキーコングJr.』『スーパーマリオブラザーズ』『F-ZERO』『ゼルダの伝説』他多数。
三代目社長。任天堂創業者の山内房治郎は溥の曾祖父。房治郎の養子の二代目社長 山内積良が脳卒中で倒れた後、21歳の若さで任天堂を引き継ぐ。
ニンテンドー・オブ・アメリカ初代社長。山内家の長女 陽子の夫。当初、アメリカにてアーケードゲーム『ドンキーコング』を売るため奔走。
任天堂第一開発部部長。伸び縮みして遠くのものをつかむオモチャ『ウルトラハンド』と『ゲーム&ウォッチ』の生みの親。宮本のゲーム作りにおける師匠といえる存在。1997年事故死。享年56歳。
任天堂第二開発部部長。ファミコンやスーパーファミコンの開発に携わる。
作曲家。代表作『スーパーマリオブラザーズ』『ゼルダの伝説』
元ゲーム開発会社ハル研究所のプログラマー。代表作『バルーンファイト』。アルバイトとして入社したが、1993年に破産しかけたハルを立て直して以来、同社の社長を務めた。(当時、山内は岩田が社長になるという条件で支援していた。)のちに、任天堂経営企画室室長を経て任天堂四代目社長に就任する。
ゲームクリエイター。株式会社ゲームフリーク社長。宮本の弟子。『ポケモン』の生みの親。
ゲームは芸術か否かという議論がある。著名な映画評論家、ロジャー・イーバートによれば答えはノーだ。ゲームクリエイターが伝えたいメッセージより、プレイヤーが自由に遊べることの方が大事と言うのだ(宮本はこの主張に同意している。ゲームは楽しむもの、挑戦するものであって、芸術としての地位はまったく求めないと彼は言う)。(p.300)
たしかに、ゲームは芸術ではないが、任天堂が現在までに我々にもたらした影響は計り知れない。日本はおろか、世界中の子供達を熱狂させた『ファミコン』というオモチャの出現。これは私にとってのいわば「事件」だったんだ。