じんの読書ノート

まぁ、とりあえず本でも読みましょうか。

【1】M.J.アドラー&C.V.ドーレン『本を読む本』

本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

 本書は、1940年米国で刊行されて以来、世界各国で翻訳され読みつがれてきた。読むに値する良書とは何か、読書の本来の意味とは何かを考え、知的かつ実際的な読書の技術をわかりやすく解説している。初級読書に始まり、点検読書や分析読書をへて、最終レベルにいたるまでの具体的な方法を示し、読者を積極的な読書へと導く。単なる読書技術にとどまることなく、自らを高めるための最高の手引書。(「BOOK」データベースより)

はじめまして、じんです。

この度、読書ブログなんてものを始めてみました。いつまで続くやら皆目見当もつきませんが、何卒よろしくお願いいたします。

といっても、見に来られる方はほとんどいらっしゃらないと思われますので、自分のための読書記録として利用させていただきます。(←じゃあなんで公開するんだ?と思われるでしょうが)

もし万が一、何かの間違いで(魔が差して)このブログに迷い込んで(落とし穴に落とされて)しまい、人生における貴重な時間を奪われた(あたしの青春を返して)という誤解が生じた場合や、(決して悪意のない)ネタバレによって引き起こされた精神的苦痛やストレス、頭痛、肩こり、筋肉痛、最近どうも胃がムカムカするんだよねぇ等々に対しての一切の責任は負いかねますのでご了承下さい。

では、第1回目「本を読む本」です。

スタートを飾るにはふさわしい本ではないでしょうか。まず、本のタイトルがいいじゃないですか。この衝撃は「山本山」以来です。原書名「How to Read a Book」を「本を読む方法」と訳さないところがニクいじゃないですか。

著者は最初にこう語っています。

これは「本を読む人」のための本である。「これから本を読みたい人」のための本でもある。つまり、「読む」ことによって知識を得、理解を深め、すぐれた読書家になりたいと思う人のために書かれた本である。(p.14)

望むところである。すぐれた読書家になるためにわざわざ、本棚の高いところ(←いろんな意味で)にあったこの本を背伸びして(←いろんな意味で)手に取ったのだから。

そもそも読書をするという行為自体が受け身のものだと思っていたんですが、どうやらそうではないらしいです。

「読む」という行為には、いついかなる場合でも、ある程度、積極性が必要である。(中略)読書活動が複雑で多岐にわたり、読書にはらう努力が大きければ大きいほど、良い読み手である。(p.16)

じゃあ、なぜ本を読むのか?

  • 物事を深く理解するため
  • 自分の頭でものを考えるため
  • 物事の正しい姿を見るため

…である。著者はこの本の中で「読書」や「本」をいろんな言葉で表現しています。

読書とは「食事」である。

元々はフランシス・ベーコンの「書物には味わうべきものと、呑みこむべきものとがある。また、わずかだが、よくかんで消化すべきものもある。」という言葉からきているらしい。自分の血肉と化するまで徹底的に読み抜くやり方もあるということですね。

知の巨人、千夜千冊で有名な松岡正剛さんも読書について「食事のように、知を取り入れ、かみくだいて吸収し、取り出して生かせ」と説いている。

読書とは「スキー」である。

ひざを曲げて、前方を見て、体重は谷側のスキーにかけて、背筋を伸ばし、前方に体を傾けて…。全部頭において滑ることなんかできない。熟練した人がうまくやっているときは、いかにも優雅で調和のとれた活動だが、初心者はぎこちなくつっかえがちで、ノロノロしている。

本とは「家」である。

それぞれの部屋はいちおう独立し、構造も内部の装飾もいろいろだが、完全に個々に独立し、孤立はしていない。それぞれの部屋が「部分」として機能し、秩序をもって配列されている。

本とは「人間や動物」である。

もはや何のこっちゃわかりません。

しかし、こんな面白い描写があります。

書き手は、骨組みから出発してそれに肉や衣装をつけ、骨組みを「包みこもう」とするが、読み手は隠れている骨組みを「あばき出そう」とする。(p.103)

書き手は構築し、読み手は分解・解体するというイメージなのか?

書き手の本当に伝えたい核の部分はいろんなもので覆い隠されていて、それを読み手は一つ一つ丁寧に取り除いて核心をつく。それが作品の本質を探る作業なのか?

まぁ、とりあえず先に進みましょう。

読書には四つのレベルがあるそうです。

  1. 初級読書
  2. 点検読書
  3. 分析読書
  4. シントピカル読書

これは1→2→3→4のように段階をおってレベルアップしていくという感じです。注目すべきなのは、点検読書と分析読書です。

点検読書の目的は、与えられた時間内にできるだけ内容を把握し、いま手にしている本をさらに入念に読む必要があるかどうか調べることです。つまり、次のレベルの分析読書への導入部にあたりますが、ほとんどの本はこの点検読書まででこと足りるようです。

西欧に限っても、これまでに出版された本の数は数百万冊に達する。だが、その大部分が、読書の技術を磨くのにふさわしい本とはいえない。誇張に聞こえるかもしれないが、実際、九十九パーセントまではそういう本だと言っても過言ではない。つまり大部分の本は娯楽または情報のための本である。娯楽や情報もけっこうだが、ただこの種の書物は、何かを教えてくれるものではないから、拾い読みだけで十分である。(p.250)

さらに、この本を読み返すとこんな文章を見つけました。

世の中には「拾い読み」にも値しない本が多いし、さっさと読み通す方がよい本もかなりある。ゆっくりとていねいに読んで、完全に理解しなくてはならない本はごく少数しかない。(p.48)

 

・・・このブログは続くのであろうか?